大軍を率いて戦争に勝つことで有名な将軍と言えば楽毅、白起でしょうか。その他にも中国史には田単、呉起、廉頗、李牧、王翦、信陵君、衛青、霍去病、李広、杜預、陳慶之、李靖、李勣など名将が数多存在しますね。
その中でも私は韓信が最強の将軍であると考えています。そして歴史上の偉人で最も好きなのも韓信です。
韓信の活躍が観れるドラマといえば2012年の中国ドラマ「項羽と劉邦 King's War」がオススメです。
総製作費35億円で全80話の大ボリュームで見応えも半端ないです。
ちなみにこのドラマは2010年の中国ドラマ「三国志 Three Kingdom」とキャストが被りまくっています(笑)
出演シーンで「お!!」となった方を抜粋すると・・・
項羽=呂布のピーター・ホーさん
嬴政=劉備のユー・ホーウェイさん
胡亥=曹丕のユー・ビンさん
張良=魯粛のフォ・チンさん
張飛=樊噲のカン・カイさん
虞姫=静妹のリー・イーシャオさん
趙高=袁紹のシュー・ウェングァンさん
李斯=荀彧のリー・ウェン・グァンさん
などなどです。
ちなみに「三国志 Three Kingdom」には出演されていませんが、本題の『韓信』役はドアン・イーホンさんが演じられています。
この方は別のドラマ「始皇帝 天下統一」では呂不韋を演じてらっしゃいます。
歴史好きならどれもオススメなので機会があれば観て頂ければ幸いです。
脱線が過ぎましたが、本題です。
中国史上最強の将軍と言っても過言ではない『韓信』についてご紹介します。
■人物
韓信(?-紀元前196年)は淮陰(江蘇省)の出身で中国秦末から前漢初期にかけての武将で張良、蕭荷と共に漢の三傑の一人です。
秦末期の大乱に際し、初め項梁に仕え、その後は項羽に使えるも重用されず、劉邦に仕えて大将軍となりました。天才的な軍略で兵を率いて趙、魏、燕、斉を攻略、有名な故事に「背水の陣」があり、劉邦の天下統一に貢献して国士無双と呼ばれた将軍です。劉邦の天下統一後に楚王に報じられたが紀元前201年に謀反の疑いで淮陰候に降格され、その5年後に反乱共謀の疑いで謀殺されてしまいました。
■若かりし頃
・韓信、亭長の家を出る
韓信は江蘇淮陰に出生して、年少時に両親を亡くし、家の生活は貧しかったため、一日三度の食事もままりませんでした。
あるとき、彼は亭長(農村等の治安担当役人)を頼って食客となっていたが食事の量がかさむからと亭長の妻は彼を冷たくあしらい、食事を提供しませんでした。
亭長の妻は連日早起きして飯を作ると、直接亭長とベッドの上で食べてしまったので、韓信が起きてきても、鍋の中には何もなかったので韓信はやむを得ず空きっ腹を抱えて亭長の家を出ました。
・韓信、一飯の恩義
韓信は飢えを忍んで河辺で釣りをし、魚が釣れるといくばくかの銭に換え釣れない時には河辺で洗濯している婦人たちに飯を恵んでもらいました。
ある老婆が彼を哀れんで、しばしば自分の食事を彼に分け与えました。韓信が感謝して「いつか必ず恩に報いますぞ」と言うと、老婆は叱りつけた「大の大人が定職にもつかずふらふらして、憐れんで飯を恵んだだけでお礼がほしくてやったわけじゃないよ」言われてしまいました。韓信はこれを受け更に努力して自己の前途を切り開こうと決心したのです。
後に韓信は出世し故郷に錦を飾った際、当時老婆が飯を恵んでくれたことを決して忘れず特別に千金を送り感謝の意を表しています。
・韓信、股をくぐる
若いころ、韓信の評判は良くありませんでした。貧乏で人に食事を恵んでもらっていたにも関わらず自尊心は人一倍強かったのです。司馬遷は史記を書くにあたり全国を旅しているが淮陰に立ち寄った際のことをこう記しています。
「私は淮陰に行ったことがある。その際に土地の人々は韓信についてこう語っていた。あの方はまだ無名の頃から並の人とは志が違っていた。母が死んだときに貧乏で葬式も出せなかったがわざわざ広い墓地を営み一万戸の墓守を置くことが出来るようにしておいた。実際に確かめてみるとまったく話の通りだった」この話は成功後こそ美談となっているがその当時では嫌われる要因になっていたのでしょう。
ある日、日ごろから韓信をバカにしている者が絡んできた。そして「立派な剣をぶら下げているが殺す度胸があるならやってみろ。それが嫌なら股をくぐれ」と言ってきました。
韓信はジッと荒くれ者を見つめていましたが地べたに這いつくばって股をくぐりました。その場に居合わせた見物人は口々に臆病者とはやしたてました。
高い志のために、短気を起こしてはならないという、堪忍の好例としてよく引用される逸話です。
・韓信の恩返し
これも有名な話ですが、先の3つの出来事には続きがあります。項羽を滅ぼしたのち、韓信は劉邦から楚王に封じられ下邳に都を置ました。この下邳は故郷の淮陰からほど近い町です。そこで韓信は下邳に着任してすぐに若い頃の恩義を返すべく河辺で洗濯をしていた老婆を招いて千金を与えて恩義に報いました。
次に居候した亭長には百銭を与えてこう言いいました。「あなたは侠気のない人だ。面倒を見るなら最後までみるべきだ」と。
最後にかつて股くぐりをさせられた荒くれ者を召し出しました。ここまで来ると噂は広がっており、召し出された荒くれ者は震えていました。ところが韓信は将校にとりたてた上で配下の将軍や大臣たちに紹介しました。「この者は私を辱めた者だ。私は殺すことは容易に出来たが、我慢して名を残すことを選んだ。故に忍んで大業を成せたのだ」紹介された荒くれ者もたまったものではなかったでしょうが韓信はとにかく将校にとりたてました。
このエピソードの頃が韓信の最隆盛期だったと思います。
■国士無双
紀元前209年、陳勝、呉広が挙兵して立ち上がりました。 韓信は西楚軍に参加し項梁に仕え、その後は項羽に使えるも献策は取り入れられず手柄も立てられないまま3年が過ぎてしまいました。項羽に見切りをつけた韓信は劉邦に仕えることにしました。ところがここでも活躍の場を与えられません。それどころかとある事件の連座で処刑される羽目になりました。韓信は処刑される際に大声で叫びました。「上、天下ニ就サント欲セザルカ。何スレゾ壮士ヲ斬ル」これがたまた腹心の夏侯嬰の耳に入りました。夏侯嬰は韓信が気になり話をすることにしたのです。韓信は夏侯嬰の推薦でことなきを得て以前よりも上位の官職につきました。夏侯嬰の紹介で丞相の蕭何は韓信と語り合い能力を高く評価していました。そして度々韓信の起用を劉邦に進言しましたが受け入れられませんでした。韓信は遂に嫌気がさし、辺境の漢中を嫌がって逃亡者が出ていたことに乗じて逃亡したのです。それを知って慌てたのが蕭何でした。蕭何は劉邦の許可を得ず一心不乱に韓信を追いました。それを見た別のものが劉邦に「蕭何が逃亡しました」と告げました。劉邦は信頼し頼りにしていた蕭何に逃げられたと思い憔悴しましたが二日ほど経つと戻ってきました。
劉邦は嬉しさを噛み殺し蕭何を叱責しました「なぜおまえまで逃げたのだ!」
蕭何は「逃げたのではありません。逃げたものを追いかけたです」と答えました。
劉邦は「一体だれを追いかけたというのだ」と聴きました。
蕭何は「韓信です」と答えました。
劉邦は「逃亡した将軍は何人も居るのにこれまで追いかけたりはしなかったではないか?」と言いました。
蕭何は「あんな者達の代わりはいくらでもおります。韓信は国士無双です。わが君が漢中の王でご満足ならば用いなくて良いでしょう。しかし天下を争う気があるならば韓信を用いるほかありません」と答えたのです。
このエピソードから「蕭何、月下に韓信を追う」の故事が生まれ、韓信の代名詞である国士無双という言葉が轟いたのです。
こうして納得した劉邦は韓信を大将軍に任命します。劉邦は蕭何の進言を受け入れ、これより文は蕭何に、武は韓信に頼み挙兵して東に向かい覇権に向けて歩み始めました。
■背水の陣
漢の高祖三年(紀元前204年)10月、韓信は新たに徴募した新兵一万人による漢軍を率いて太行山を越えました。東に向って項羽の属国趙を攻撃するためです。趙王と大将の陳余は20万の兵力を配置集中して太行山の東の要害井陘口を占拠して迎撃の準備をしていました。井陘口の西は百里も続く狭い一本道で両側に山が迫っていましたが韓信は必ず通らねばならない道でした。
趙軍の参謀の李左車は正面は死守するものの交戦はせず、隊を後方に派遣して韓信の糧道を断ち韓信を井陘の狭い道に封じ込めようという策を献じました。
ところが陳余はこれを聞き入れず「韓信はわずかに数千人だ。遠路はるばる来たのに、もしわれわれがこれを避けて交戦しなければ、諸侯たちの物笑いにになるではないか?」と述べました。
韓信はこの知らせを探知すると、迅速に漢軍を井陘の狭道に進入させ、井陘口から三十里のところまで進んで宿営をしました。真夜中、韓信は2千騎を派遣して、それぞれに漢軍の旗を持たせ、小道から迂回して、趙軍の大宿営地の後方に伏せさせました。韓信はこの一隊に「交戦時、趙軍はわが軍が敗走するのを見ると、必ずや全軍を出して追撃してくるに違いない。そこで、おまえたちは素早く趙軍の宿営地に侵入して趙軍の旗指物を抜き取り漢軍の紅旗を立てるのだ」と指示していました。
残りの漢軍は簡単に食事を済ませると、すぐさま井陘口に向って出発し、井陘口に到着すると大隊は綿蔓水を渡り大河を背にして陣を張りました。高所の趙軍は遠くからこれを見て、皆韓信を嘲笑ったのです。
夜が明けると韓信は大将の旗印と儀仗を用意し、隊を率いて井陘口を出発しました。そして陳余が精鋭を率いて韓信を生け捕りにしようと出撃してくると、韓信はわざと旗を投げ捨て鼓を捨てるふりをして川岸の陣地に逃げ戻りました。陳余は趙軍に全軍出撃するよう命令し漢軍の陣地に迫ったのです。
大河を背に陣取った漢軍はもとより退路はなく各兵士は勇敢に戦いました。双方の斬合いは半日続いたが趙軍は勝てませんでした。
このとき趙軍は態勢を立て直すため宿営地に戻ろうとしましたが、時すでに遅く自軍の宿営地全てに漢軍の旗指物がはためていることを知り、軍は大きく乱れてしまいました。韓信はこの機に反撃を行い、その結果、趙軍は大敗、陳余は戦死し趙王を捕虜として捕らえました。
戦いの後、配下の将達は韓信に聴きました「兵法では、後ろに山を控え、水に面して陣を張る、とあるのに、今回は全くの逆でした。それなのに勝利したのは何故ですか?」
これに対して韓信は「兵法にも【これを死地に陥れてしかる後に生き、これを亡地に置きてしかる後に存す】とあるではないか。それを応用したのはこの度の背水の陣じゃ。なにしろわが軍は寄せ集めゆえ、生地に置いたのではバラバラになってしまう恐れがある。だからわざと死地に置いてみたのだ」と答えたのです。
これに将達は「恐れ入りました。我々の遠く及ぶところではありません」といって頭を下げ韓信に心酔していきます。
ちなみにここで韓信が上げている兵法書とは孫子の兵法です。孫子の九地篇に「コレヲ亡地ニ投ジテ然ル後ニ存シ、コレヲ死地ニ陥レテ然ル後ニ生ク。ソレ衆ハ害ニ陥レテ、然ル後ニヨク勝敗ヲナス」とあります。
韓信は兵法書の原理原則を熟知した上で、状況に合わせて臨機応変な運用をしていたのです。型破りにも通じますね。
明代の茅坤(ぼうこん)は韓信を古今第一の兵法家であると言い、「兵仙」という言葉を贈っています。「司馬遷を文仙、韓信は兵仙」と称したのです。
国士無双、兵仙、神帥など異名だけ聴いても圧倒的だったのが分かりますね。
■半渡の計、嚢沙の計
漢の高祖4年(紀元前203年)11月、韓信は斉の首府であった臨淄城をなんなく攻め落とし、斉王を追って高密城へ迫りあっという間に包囲しました。そんな中、楚の猛将「龍且」が20万の大軍を率いて救援にやってきました。項羽率いる楚としても漢軍に斉をとられると両面から挟撃され形勢が不利となるので絶対に渡せません。そこで項羽旗下で鍾離眜と両翼を担っていた「龍且」を向かわせたのです。韓信の大軍は淮水の下流で楚の龍且の20万の大軍を迎え撃ちました。韓信はまず分遣隊を夜半に上流に向かわせ数万の食糧袋で土嚢を作り、その流れを堰き止めた上で夜明けに軍を派遣して楚軍を正面で迎え撃ちました。流石に項羽の下で信頼され長年活躍している猛将です。龍且は次々に漢軍を討っていきます。一方漢軍もよく訓練されており集の力で何とか抵抗していました。そしてわざと負けたふりをして潰走し河を渡ったのです。河は堰き止められていたため容易に渡ることができました。
そこで竜且は自ら軍を率いて准水を渡り追いかけました。このとき漢軍は土嚢を突き崩します。楚軍は巨岩を転がしながら押し寄せる大水に飲まれ、余りの水の勢いに楚の精鋭軍も成す術がありませんでした。龍且は懸命に逃げ、また馬も名馬であった為、なんとか岸に辿り着いて一命をとりとめたました。しかし岸から見た自軍は見るも無残でした。そして韓信はこの大水の難を命からがら生き延びた楚軍に伏兵をあてて殲滅をはかります。龍且はさすがによく戦いましたがやがて疲労で動けなくなってしまいました。雑兵に討たれることを憐れんだ漢の名将「曹参」が一騎打ちを申し込みこれを討ったのでした。まだ河を渡っていなかった斉楚連合軍は戦わずして自滅したのです。
韓信は勢いに乗って軍を指揮して攻撃し斉王の田広を捕虜にして広大な斉の地を全て平定しましいた。これが孫子兵法にある「半渡の計」です。
素晴らしい戦略戦術による平定でしたが、実はここでは一つ悲しい出来事が起きています。韓信がまだ斉攻略の序盤だった頃、漢の外交官である酈食其(れきいき)が斉との和平交渉に臨み言葉巧みに斉王を説き伏せ、70余城を帰順させていたのでした。この際、韓信の腹心の蒯通は「言葉巧みに無傷で70余城を獲得した酈食其」と「軍を用いて犠牲を払いながら未だ数個の城のあなた」ではどちらの功が勝りますか?と言い韓信が兵を引き上げようとするのを止めてしまったのです。そして酈食其が斉王の傍にいるにも関わらず攻め続けたのでした。酈食其は斉王の逆鱗に触れて煮殺されて処刑されるという悲劇にあってしまいました。酈食其も功を焦り斉王と会う前に、交渉することを韓信へ伝達していなかったのは落ち度でした。もし和睦という情報が斉の策略であれば、軍を引いた分は取り返しがつかず、もしかしたら後ろから急襲されるかもしれませんでした。しかしながら韓信が功を焦ったのか蒯通がそそのかしたのか、或いは両名かは分かりませんが酈食其から斉王帰順の伝達が来た後も攻め続け酈食其が処刑されてしまったことは確かです。
■将器
あるとき劉邦は韓信に問いました。「もし私が、兵を率いるとすれば、どれぐらいの兵士を率いることができるか?」
これに対して韓信は「陛下は、兵士10万人を率いることができます」と答えました。
劉邦はまた「では、そなたはどれぐらいの兵を率いることができるのか?」と問いました。
すると韓信は笑って答えた。「多ければ、多いほどいいのです」と答えたのです。
劉邦は兵を指揮する能力が韓信に及ばないかのように言われ面白くありませんでした。そこで「それならばなぜお前は私に従っているのだ?」と問いました。
韓信は「陛下は兵を指揮するのは得意ではありませんが、将軍を指揮するのは上手です。私は兵の将、陛下は将の将なのです」と諭しました。
劉邦はなるほどと納得したかに見えたが、韓信の能力が自分より上かもしれないと思い恐怖と不信の思いを募らせていくのです。
■四面楚歌
漢の高祖5年(紀元前202年)12月、楚と漢の両軍は、垓下(現在の安徽省・霊璧南)で決戦をしました。劉邦は韓信を主将として大軍の各部隊を統一して指揮させました。項羽は楚軍10万を指揮して正面から漢軍の陣地に向って猛攻撃を仕掛けました。正面激突では天下無敵の項羽と楚軍を前に苦戦を強いられた漢軍でしたが、わざと退いて誘い込み項羽を包囲することに成功しました。後からあとから韓信の指揮のもと押し寄せる漢軍に流石の項羽も旗色が悪くなった頃、楚の勇将である希布と鍾離眜が駆け付けました。それまで大将でありながら四方八方の兵を相手にしていた項羽は両将軍の救援で正面だけに集中でき、その項羽を止めることができる人間は存在しませんでした。しかし執拗な漢軍の追撃を受け続けた楚軍は全軍の過半数以上を失い城へ戻りました。彭城に戻ることを決めた項羽は夜を徹して行軍しました。道中は韓信の疑兵の計により心休まる時はなく、やっとの思いで彭城に着くもすでに漢軍の旗が風になびいていたのです。流石に城を攻めるには兵が足りず、また韓信がうしろに迫っていたため最強項羽も彭城を諦めて江東へ向かいました。道中も疑兵の計や伏兵に悩まされましたが、項羽の強さは次元が違いました。同時に8人もの漢の将軍を相手にしながら次々に討ち、50人以上の将軍を追い払ったのです。その項羽の強さに刺激され士気が上がる楚軍の精鋭。勝ち戦のはずだった漢軍は日増しにその被害を増やしていきました。ここで韓信は心理作戦に出ることにしたのです。挙兵から10年あまり故郷に帰っていない兵たちに故郷の歌を聴かせ望郷の念の駆り立てるという作戦に出たのです。途端に父や母、または子のことが気になり士気が下がる楚軍、歌っているのは漢軍でしたが楚の故郷の歌を修練したため、楚の兵士は既に楚が漢の手に落ち、楚人が歌っているのだと思いこんだのでした。これであっという間に兵の大半が逃げ出してしまいました。その時項羽は連日連夜の戦いで疲れ果て癒しを求めて虞美人こと虞姫と遅くまで飲んでいたために起こしても起きないほどでした。追い詰められた将たちも項羽に準ずるか否か議論となりました。ここで歴戦の勇者である希布と鍾離眜までもが雑兵に姿を変えて逃げたのです。一族の項伯は張良と親交があったため漢軍に降ることにしました。項羽と最後まで運命を共にすべく残ったのは虞姫の弟の虞子期と周蘭、桓楚の3将軍と兵800名ほどでした。これが有名な「四面楚歌」です。現代においても八方塞がりの状態において使われています。覚悟を決めた項羽は大事な虞姫に自分と同じ運命を辿らせまいと逃げるように言いますが劉邦の虜になるくらいならと自害してしまいます。虞子期もその墓前で自害してしまいました。逃避行を続ける楚軍でしたが漢軍は数十万に対して楚軍は800名です。次々に兵は倒れ遂に項羽の周りにはたった28騎となりました。この28騎と項羽で幾度も突撃を繰り返し漢軍の数百名を討ち取りましいたが遂に力尽き、烏江の辺で項羽は自害しました。このとき項羽は31歳でした。
こうして5年に及んだ楚と漢の戦いは漢の劉邦が天下をとって終結したのです。
この時に逃亡兵に紛れて逃げた「鍾離眜」は、その後に韓信を頼り匿ってもらいます。
楚漢戦争で劉邦はとにかく項羽に負け続けていたため、その中心的な将軍であった「鍾離眜」をひどく恨んでおり高い懸賞金をかけて探していました。
しかしいくつかの要因で劉邦に謀反の疑いをかけられた韓信は「鍾離眜」を自害に追い込んだ上で劉邦に謝罪しますが、許されるず王から淮陰候に降格されてしまいます。
■逸話
「史記」を記した司馬遷は、韓信の淮陰侯列伝で韓信を全体として褒め称えていますが評論においては「韓信が道理を学び、自分の能力と手柄を自慢しなかったなら、理想に近いことを実現したであろうに、そういった努力をせず謀反を図ったのだから、一族滅亡となったのは当然である」と厳しく評しています。
また『資治通鑑』を記した司馬光は司馬遷の意見に賛同しながらも「漢が天下をとった原因のほとんどが韓信の功績である。韓信が斉王の時、楚王の時、反逆の心などはなかった。しかし、淮陰侯に落とされてからは反逆を図ったのだ。韓信は劉邦には自分に対する利益を与えることを求め、かつ広い心で自分に対するように求めたのだ。これでは生き残るのは難しいだろう」と評しています。
しかし、韓信は謀反人とされ一族が滅亡させられたにも関わらず、後世では蕭何、張良と共に漢の創業に最も功績のある漢の三傑の一人として呼ばれています。
唐代には武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれています。この十哲には中国史に輝く名将達が名を連ねており左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣、右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、白起、李靖、李勣、楽毅という名将中の名将たちと同等であると評されているのです。
その後においても元代の戯曲や小説では韓信は無実の罪で殺されたことになっており、三国志平話では韓信は無実の罪により殺されたことに対する訴えが認められ、曹操に転生し漢王朝に復讐を果たすことになっています。 元代の知識人においても韓信の無実を主張する人物がおり、その知識人によると朱子もそのように主張していたといいます。
元の時代の三国志平話は三国志演義の原型となった話ですが、物語の冒頭で韓信が登場します。冥界において韓信は無実の罪で劉邦に殺害されたことを天帝が定めた裁判官(司馬仲相)に彭越、英布と共に訴えます。劉邦は白をきりますが呂雉、蒯通の証言で劉邦が韓信らを警戒し無実の罪で呂雉に命じて誅殺させたことが語られるのです。
司馬仲相は天帝の名で判決をくだし韓信を曹操に、彭越を劉備に、英布を孫権に生まれ変わらせます。曹操に生まれ変わった韓信は献帝に生まれ変わった劉邦を幽閉して伏皇后に生まれ変わった呂雉を殺害して仇を討つという物語になっています。
このことからもすでに中国の元代では韓信が大功をあげたにも関わらず、無実の罪で劉邦の指示により誅殺されたという説話が存在したことが分かります。
■韓信の最後
劉邦は功労のあった人に賞を授けることにしました。例えば張耳を趙王にし、英布を淮南王にしました。韓信も斉国を攻め落としてから斉王を授かります。しかし項羽を討った後は劉邦は口実を作って韓信の軍事権を奪おうとし、韓信を斉王から楚王に変えてしまいます。さらに西漢が創建されてから韓信が反乱を企んだと無実の罪を着せるのです。劉邦は南方の游雲夢を抑えつける口実で陳平と結託し諸侯との面会を求め韓信を拘束しようと企みます。韓信は知らずに劉邦に謁見してしまいます。韓信はその場で拘束され後に淮陰俣に降格させられましいた。
鋸鹿守の陳豨が反乱した時期に韓信のもとにいる居俣は韓信の気に触ったことから拘束されました。これに腹を立てたその弟は復讐しようとして韓信が反乱し呂后を襲撃するという密告をしました。それを聴いた呂后は蕭何と共謀し策略を操り、反乱した陳豨が鎮められたと偽情報を流して諸侯と群臣に祝賀の儀式に参加するよう通達しました。韓信は無防備に祝賀の儀式に着いたときに呂后に派遣された兵に拘束されてしまいます。前196年1月、韓信は長楽宮で殺害された上、三族まで処刑されてしまうのです。
司馬遷も「史記」の中で韓信のもとにいた居俣の弟の韓信に対する密告は全くの事実無根として冤罪であると示しました。秦檜が「でっち上げ」の罪名で中国史のスーパースター「岳飛」を陥れたのも歴史上の大きな冤罪事件だというのは周知の通りで劉邦、呂后などが韓信を殺害したことも同様に永遠の悲劇で冤罪事件として残ったのです。
ちなみにこの秦檜さんは正座している銅像がわざわざ作られ、観光する人たちが唾を吐きかけるという名所を作った人物にもなっています。
韓信がもし反乱しようというのであれば、「楚漢の戦い」がもっとも良い機会でした。当時、韓信は軍事力を握り、兵力が強大であり、混乱した時勢だったため、一方の雄を唱えることは容易にできました。これに対して劉邦が天下を統一したのち、軍事権力を奪われた韓信が反乱を企むのは、韓信の能力からしてありえないことです。さらに韓信は2度も天下を三分して治めようという誘いや提案を劉邦に背くことは出来ないと断っています。
劉邦と項羽が天下を争っているときに、項羽は武渉を韓信のところに派遣し「劉邦のことはすべてあなたが握っている。あなたが右に寄れば、漢王が勝利し、左に寄れば項王が勝利する」ことから「楚漢の戦い」において、韓信は全局面を左右する重要な人物だと説明がつきます。武渉は韓信に対して、項羽と連携し劉邦と三分天下を勧めました。しかし韓信は、「私は当年項王に追随したとき、矛を持ち宮殿の入り口を守衛するものだった。私の提案は採用されず、そのために楚を背き漢に帰属した。漢王は私に将軍を授けてくださり数万の大軍を与え、良い衣服や美食も分け与えてくださり意見を聞き入れてくださったから、今日の私がいるのだ。私のことを非常に信用してくださっている漢王を決して裏切ることはできず、私が死んでも心は変わらない。項王のご契状に感謝すると伝えてください」と答えたのです。
武渉が去った後に、齊人で韓信の腹心であった蒯通は天下が韓信に握られていると知り奇策で韓信を感動させようとし、面相の説にて韓信を動かそうとしました。蒯通は「真正面から見たあなたの面相は、危険かつ不安定な立場に立たされている。しかし裏の面相では貴重で尊いお方だ。」韓信はそのわけを聴きました。蒯通は劉邦の運命は韓信が握っているとし、韓信が漢に身を寄せれば漢が勝利を獲得し、楚に身を寄せれば楚が勝利を獲得する、と天下の情勢を分析し、韓信に対して三分天下を勧めたのです。
韓信は「漢王は私を優遇し、私を車で送り、衣服や美食を与えてくれているから、憂患を分かち合い、忠誠を尽くすべきだ。利益のために裏切ることはできない」と答えた。蒯通はさらに人の心は難しいとし、韓信は漢王に対して忠誠を誓っても、智勇兼備、功労が天下を覆うほど大きい人臣としては、とても危険だと指摘しました。数日後、蒯通は再び韓信に対して、時機を逃さずに決断をするようにと促します。漢を背信できない韓信は漢に対して功労を残したことから、漢は義理も人情もないことはしないと考えたのです。このような韓信の言行から、彼が反乱を企むとは思えないというこです。
劉邦は韓信を元々信用していなかったが決定的な出来事が2つありました。
①斉を制圧してからのこと韓信は側近のすすめもあり自らを斉王にしてほしいという使者を劉邦の元へ送りました。この際、劉邦は滎陽で項羽軍に包囲され猛攻を受けていました。そこへ韓信が王にしてほしいと言ってきたのです。劉邦はカッとなりましたが傍に控えていた張良と陳平が劉邦に認めるように耳打ちし斉王となったのです。
②項羽にとどめを刺すべく追撃をしようとした際に韓信と彭越が出てきませんでした。そのために大敗を喫してしまったのです。そこで張良が次のような進言をした。「項羽の敗北は決定的な状況であるのに勝ったあとの分け前について何も約束していません。これではやって来ないのも当然です。天下を分けてやると言えば喜んで来ることでしょう」その進言に従い使者を通じて伝えたところ、二人とも喜び勇んで参陣したのです。
韓信としては項羽の誘いや蒯通の進言を受けなかった時点で劉邦に巧く伝える使えるべきでした。しかし戦では無敵の国士無双であるにも関わらず、こういう不器用で弱い部分を持っているというところに更なる魅力を感じてしまいます。
司馬遷は韓信がもっと謙虚であれば違う結果になっていただろうと評しました。
■おわりに
私が韓信を歴史上の人物の中で最も好きな理由は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」が影響しています。司馬遼太郎さん作品の「誇り高いが純粋でお人よし。誤解を受けやすい性格」というイメージが好きなのです。
戦場で軍を操ることに関して凄まじい才能と情熱を持ち軍を指揮する立場になることに執着、子供のような純粋な心を持ち一部の人物から熱狂的な支持と支援を受ける一方で、上司からは誤解を受け怒りを買うような言動や行動も行うという政治性と社会性が欠如した人物でした。
自分の才能を認めてくれる人の下で働きたいという強い思いに共感して以来、私の中のNo1偉人は韓信です。
歴史においてifを考えるのはありがちですが三国志の蜀漢に韓信が居たら、政治面を諸葛亮、北伐は韓信が大将軍として行えば達成できたのではないだろうか?韓信が蒯通の進言を入れて斉王として独立していたら?などと考えてしまいます。
スーパーファミコンの項劉記というゲームをプレイした際に、劉邦でプレイを始めると項羽との勢力の差に絶望したのを覚えています。正に無理ゲーでした。日本に置き換えると沖縄県が劉邦で、その他の都道府県はすべて敵という勢いでした。圧倒的な戦力差に加えて自然が豊か過ぎて軍が通るには向いていない蜀から中央という行程は小説やドラマではすぐですが現実では途方もなかったと思います。
そんな中で打倒項羽ができると自分を信じ、かつ実現した韓信はやっぱり国士無双の名将だったと改めて思いました。